鞠智と生命の木
- yamato-567
- 2020年6月30日
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古代の菊理の菊の字が示す、草(隠れた)、狗くられた米とは何でしょう。
それは、曲玉のIが落とされ曲げられた光の前の米の事です。
その米の事を、生命の木と申します。
生命の木は、神一米→曲玉一光→現れの私、の構図ですので、現れの私からいかに求めましても、いかに理論を構築いたしましても、すでに光と成った世界の仕組みしかわかりません。
では、どうしたら、米に、菊理に気づけるのでしょう。
米の隣の、曲玉の私に気づく事です。
日本人が、曲玉を胸に下げていましたのは、カッコいいからではなく、本からの意識を忘れないためです。
そして、その胸の息の根(本)は、生命の木があると実感するのです。
喩えますと、実の目は、鏡などを通して、虚実の目しか見る事はできませんが、目が在る事は実感できます。
それを観ると申すのです。
然らば、観るは、在るんだという、ただの気づきです。
曲玉も、八咫鏡と同じで、観るがキーワードです。
ところで、水前寺成趣園のいきなり団子は、生命の木を説明いたします。
菊理は鞠智でもあります。
私たちは、とらえられる皮(革、波)を見て存在だと認識していますが、とらえられない中身(神日イモあん、海)こそ実在であり、波は海がなければ存在できません。
海は波がなくとも存在いたします。
よって、海が前で、波(蛇)が後です。
肥後の民(カラ族)は、団子をダゴ(蛇後)と発声いたします。
生命の木を解説するユダヤのカバラの最高奥義ではダアトです。
修行者は、そのとらえられる波(皮)を実在と認識するのではなく、とらえられない海を実在とする認識にひっくり返すために、波を凪ぎ(那木)に、心の平安に挑戦してきたのだと思います。
そうは申しましても、とらえられるものを実在、とらえられないものを非実在としていた、これまでの逆立ちを止めるのは簡単ではありません。
ただ、その先には、私たち人類が抱えていた諸問題は、忘れ去られるでしょう。
生命の木の写真と、先日は、お花をお買上げいただいた上に、店主様から差し入れをいただきました、いきなりダゴの写真は、お借りしています。

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