top of page

霊性の目覚め

  • yamato-567
  • 2020年7月7日
  • 読了時間: 2分

神道におけるかしこみかしこみは、おそれながら申し上げますという意味があります。

仏前で拍手を打たないのは、死者を黄泉へ追い払わないためと言われています。

日本人の細やかな気配りには、目に見えない世界にまで及びます。

もし、霊性の元において同一であるなら、他への畏敬も必要ありません。 畏敬はおそれではありません。 何もかもおそれないというのは無知なだけです。 また、よくスピリチュアルなどでいわれています、深いところで同じだという勘違いがありますのは、みるもの(意識するもの)とみられるもの(意識されるもの)が、私の鏡においての神の光の内反射と外反射として割れているだけで、同じ元の光ですから、内の世界で浮かぶ想いも、外の世界で出会う隣人の態度も、私の鏡から内に籠り、外に発したものですから、私を通しての同一性はあるのです。 そういう意味で他者はないのですが、鏡が理解できなければ、謎が解けないと申しておりますのは、鏡は、共有されるものでなく、個の全体にあるものです。 ですから、皆に在るという表現ではなく、個々の私は在ると申し上げているのです。 根本的な問題として、あなたの実在と私の実在、神の実在と私の実在が同じものであるなら、動きとしての衝動はあったとしても、予想もしない驚きの世界もありません。 人が神の意志で動くものでないから同じものではないと申していますし、神そのものでなく、神の子という表現をしているのです。 古事記は、人が神の末子である事を教えます。 話を整理しますと、私の舞台(鏡)で踊っているあなたは私ですが、あなたの舞台で踊っているあなたはあなたという事です。



Comments


記事: Blog2_Post

Subscribe Form

Thanks for submitting!

©2020 by 日本(大和)。Wix.com で作成されました。

bottom of page