霊(菊)を入れるマナ(魂)、令(肉体やお米)を入れるマナ(魄)は、実は元は一つでありますが、片仮名と分けているわけです。
その片仮名(霊と令、火と水)を合わせた火水を、真名合わせと申します。
それは、国宝人吉青井阿蘇神社の楼門と禊ぎ池、エルサレム第一神殿の太陽(菊)の門と禊ぎ池の関係でありますが、イエスが霊と水の洗礼をいたしましたように、本来の形を説明いたしますと、縄文火焔土器の姿そのものであります。
それが、マナセの壺の形で表現されますのは、二羽宇宙(私の中の宇宙の小天、宇宙の中の私の大海)の、∞の表現だからです。
その∞も、∞神日巣の影であって、片仮名(双葉、偶像)と現れているものは虚実という事になります。
現れていない何か、∞の交差する点なき点、言延びして誕生した影の後ろの正面が、真実のあなたという事です。
古代日本人の教えを秘めた古今和歌集に、マナ序、カナ序がありますのは、そのためです。
また、カナ人と申しますのは、現われ(片仮名)人であるからです。
写真は、坂口の産土神であります、カナ地(河内)の厳島神社の手水舎と、縄文火焔土器との比較です。
また、人の仕組みを、スサノヲの外反射、ツクヨミの面反射、アマテラスの内反射で説明するため、舟型(浮き舟)水円鏡となっています。
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