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観世音と観自在(私は在ると観る)

  • yamato-567
  • 2020年7月11日
  • 読了時間: 2分

666→369→666の、18(御箱、アーク)の視点と面と記しています観音は、なぜ音なのでしょう。

もちろん、光の波も、波としては同じですが、その精妙さゆえに、五感に慣れ親しんだ、私たちが観察するには、誤解を生じやすいのです。

それで、響きを、音霊と申しますと、音として感受できるものと、誤解があられるかも知れませんが、波であれば、人の感受があろうとなかろうと、響き(木霊)という事です。

その波を、感受していますのが、内耳の器官です。

内耳は、高天原(タカアマハラ)のかたどり(形象)が、あたかも、螺旋回転(ラ声)である事を知っているかのような、構造です。

外耳は、胎児の形ですが、そこに、蘇りの読みのヒントもあります。

読みはヨミ(黄泉)で、ヨは、荒霊(環境という石舞台がある能力)、奇霊((石舞台で踊る能力)、和霊(神を知る能力)、幸霊(他を知る能力)の四能の熊手(芳手)を支える車です。

その車は、知(申)、情(戌)、意(雉)という事です。

知情意が、雉馬(車)のLに、申のIと情のIが乗った山車の状態を、祈り(意乗り)と申します。

ところが、情や思考に乗ったものが、祈りと勘違いされてきたのです。

ひっくり返った山車を、角力するのが詠みであり、ヨミガエリ(帰り)という事です。

写真は、文字通り、祖父の形見の蜘蛛貝です。

愛加那が吊るす蜘蛛貝と、内耳の蝸牛(カタツムリ)と、螺旋回転での、カタカムナの表現、生命の力の表現の写真は、お借りしています。



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