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見えている拝ヶ石山を、見えていないと観て、芳(香久)三山

  • yamato-567
  • 2021年6月9日
  • 読了時間: 1分

柏手で、少しずらして高い方がタカミムスビ(私の中の宇宙)の左手(日当たり手)で、低い方がカミムスビ(宇宙の中の私)の右手(身際手)です。

ところで、岩戸山の歌詠み場崖下の鼓ヶ滝からは、芳三山の古代の火山内湖は、三山ではなく、四山に見えます。

なぜなら、拝ヶ石山があるからです。

それではなぜ、芳三山なのかは、あなたが身際手からご覧になる時は、私とあなたとあなたと数えますが、日当たり手からながめますと、日が当たっている私と、その影と延びる私とあなたとあなたの四になるわけです。

これが得心できなければ、拍手が満ちて干く(打ち祓う)おりに神生み島生みとなる仕組みにも得心できません。

現れてくる数玉(言吹きの寿、三神の須、す→映し美し世→美須丸、○+。)と、日本人は現れていない夜久(イワナガ)を足して数えとして数えます。

映し世(顕界)である影(八咫烏の足)は、夜久(幽界)から延びていますので、夜久を捉(捕ら)えればよいわけです。

ややこしいのですが、それで、逆にして、実際は見えている拝ヶ石山を、見えていないと観て、芳(香久)三山と申すようになったのです。



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