人生は苦なりとみつめよ、という釈迦の教えの法句には、一般的な四諦八正道のように、わかりやすく示された道だけではないように思えます。
私はむしろ、苦を滅する方法よりも、苦あってこその道の理解、人生の意義だと考えています。
例えば、自らが悪い事をしたという自覚がありますと、苦がやって参ります。
それは、あなた様が何であるかの気づきのヒントと成り得ます。
あなた様が全きものであるがために、その現象の違和感から苦はやって参るのです。
参ると申しますのは、苦もあなた様に帰依する、あなたの実在(真実)の使い(家来)という事になります。
日本人は、自らを苦しめる神、例えば貧乏神でも祀って来ましたね。
また、自らの意志で息を止めようといたしましても、すぐに苦しくなります。
これは、あなたが生かされている存在だからです。
日本人は、何々命や何々尊と名を付けて来ました。
このように苦をみつめますと、自らが何であるのか、どこから来てどこへ帰るのかの謎のヒントとなります。
そもそもというくくりが好きな私ですが、そもそも苦がある事、そのための人生がわざわざある事、それだけであなたが何様(御座に居ます、頂きに居ます)かが伝わりますよね。
ですから、あなた様は、私はそのあなた様に手を合わせて申しあげますが、どこぞの教祖様に隷属なさって、苦から救って貰う必要などないわけです。
それは、古今集巻第七(日本国歌君が代の元歌)や、一生懸命に守ってきたイエスへの信仰や教会の拡大を、イエスに否定され号泣したヨハネの黙示録の、第七の封印の神髄です。
Comments