鳥たちがさえずり合う、いつもの公園では、もう、枯れ葉が舞っています。
本年は、何年だったのでしょうか。
それも忘れてしまうぐらい、年毎に、一年は、足早に過ぎて参ります。
ところで、戊とは、天の坂戈(逆鉾)の事です。
その戊(坂戈)から、神生み島生みが成されると、古事記には記されています。
その坂戈を手にしていますのは、ナギナミ二神です。
世界的で、一般的な創造神話では、人は、神に創造されるのですから、古事記は、驚きの展開という事です。
ともかく、神々(天使)である戌(犬)神は、神成(人、ライエデン、太郎)から、太→犬の丶ちょんまげ(米→光)として現れます。
ところが、人は、使いである犬に仕えるようになり、自らがなんであるかを忘れたのです。
それは、大企業に運よく、契約社員として働く事ができる所から始まります。
そして、旧約、新約と、契約が更新されていくうちに、大きな工場を任されるようになりました。
また、仕事も評価され、地位も上がります。
宗教で喩えますと、修行を修め、階段を昇っていかれた、聖者の地位のようにです。
ところが、その聖者も、天使の羽ばたきにはかなわないのです。
なぜなら、翼を持たないからです。
それでも頑張って、やっと最高の地位にたどり着きましても、契約の社長でしかありません。
その上には、オーナーであります、神の存在があるのです。
妙な物語の展開ですが、最後には、オーナーの実子である事が明かされるのです。
ところで、イスラエルを名乗る事となったヤコブは、天使との相撲(角力)に勝ったわけですが、それこそが、主人と使いの立場に戻ったという事になります。
そうなりますと、人(成すもの、神成)は、神日巣の巣に、座(諏訪)らしているものですから、使い(戊から出た戌神)のように、わざわざ、翼もいらなかったという事です。
法華経が、シャカの死後数百年を過ぎて編纂されていましても、この案内は、皆さんの実家の玄関に至る、最後の案内です。
ところが、その示シ家(実家を示すもの、〆シヤ)の案内をお聞きになられましても、進化や天使の羽がお好きな方は、また地図を拡げになり、実家をお探しになられるのです。
そうしますと、実子は、どこまでいきましても実子に変わりはありませんから、別の道を新たに作らねばなりません。
そこで、進化するためには、アルバイト契約から始めなければならなくなるのです。
偶像六芒六界の双六(すごろく)の、振り出しに戻るですね。
毎度、妙見な話ばかりですみません。
法華経の中の、長者窮子の喩えのイメージ写真は、お借りしています。
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