これまでの宗教や流行りのスピリチュアルのように、宇宙大に意識が広がるとか、誰彼にも在ると申しませんのは、私は在るは、レンズの度合いで捉えた景色にあるのではなく、レンズそのもので在るからです。
その
は、私個人の意欲です。
個人の欲が元にありますので、修行者の方々が、個を消滅する努力をなされましても、努力も個に付随いたしますので、堂々巡りの迷いとなるわけです。
また、空き家にしたいという宿主の願いは、宿を欲しているものたちの草刈り場となります。
なにも、欲望からくる苦に対峙するために、苦悩や苦痛を抱える必要はなく、苦(息苦しさ)にも、泳ぐ息苦しさと溺れる息苦しさがあるという事をみつめればよいわけです。
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