霊(どん振子)には増減があります。
魂はその霊を結び、私というアイデンティティ(自意識)にしています。
自意識の芽生えの時期が、神伝の歴史でも、たった一息の呼吸にもあります。
神代七代にあたり、三、五、七、ですが、それからも十四、二十一とゆるい魂の結び直しがあります。
朝顔のつるを、早いうちに固定してしまえば、成長に支障をきたしますので、神置き、紐解きと、慎重である時期です。
しかしながら、魂の緒が強く結ばれた後でも、御霊は増えていきます。
そして、年老いて、自意識の弱まりとともに御霊は減り、やがて魂の緒の結びがはずれると、事(言)切れます。
言延びが切れる、死という事です。
一つの霊が事切れたとしても、魂は、私の実在から現れたひものため、元の魂の私というアイデンティティはあり、離れた霊にもコピーされた記憶の私が残ります。
それは御霊が増える年代でも、入口があるという事は、出口もありますので、思いに息を止めた強い異和感があると、魂から切り離されます。
それを生き霊というのでしょうが、魂としての自意識はなくても、一つ一つ霊の渦が波長が合えば、消えてゆく前に、より強力な霊となります。
それを悪霊というのかも知れません。
その霊と波長が合い、受け入れる意思が強いと、その集合した霊が魂の緒で結ばれます。
それを魂の契約と申し、それは実体のないものからさらに写し出されたものであり、煙のように消えゆくものなのです。
八磨でシヴァ刈りされて消えてゆくものを、また執着して拾いますと、善悪に分けた桃の実となり、新たな人生で、鬼退治の禊ぎの物語が始まります。
要は、その選択の川で洗濯しているのも、山で再生のため壊すシヴァ刈りをしているのも、自意識も可能にしている、実在である私自身の演出だという事です。
その事が理解されれば、偽りの善悪の争いは小さくなっていきます。
部族だけでなく、霊も一くくりとする、大和(やまと)の日本人を意味する、桃(百々)の節句の暗示、子孫繁栄の、桃の実の養成(霊の増減、七五三の神置き、紐解き)、私の結び使い(使神)となる、桃太郎のお伽噺の写真は、お借りしています。
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