ややこしい話ですが、片仮名から学ぶ事が、真名に気づく、秀でた方法(秀真)という事です。
表現はおかしいのですが、本質(実在)を知るには、本質でないもの(非実在)の中にいた方が良い方法だという事です。
それで、皆さんは、困難な戦いの、非実在にお生まれになられます。
そして、すでに戦いの中におられるのですから、甘い話はないわけです。
ところで、大和タケルの歌にもありますように、青垣籠もれるまほろば(真秀呂葉、口を呂と分けた世界)は、山々に囲まれた大和盆地ですが、大和タケルが名(真名)を襲名した、熊襲の人吉球磨も同じ盆地です。
分けた世界と申しましても、分けた面の世界も含めて三つですので、住吉(まほろば)は、ウハツツノヲ、ナカツツノヲ、ソコツツノヲに分けられるわけです。
それは、顕界、幽界、神界ですが、光の反射で申しますと、荒さぶ外反射はスサノヲで、面に留まる反射は月読み(月の津久は付く)で、内に籠もる内反射はアマテラスという事です。
そこで、地であるスサノヲには息の生長がありますので鼻で、息の生長がないツクヨミとアマテラスは、右目と左目という事になります。
さらには、なぜに、右と左と分けるのかと申しますと、面には、左に螺旋して舞い降ります初点(チョン、丸す)ですので、面からしますと右目で、逆に、天へは、右に螺旋して舞い昇りますので、天からしますと、左目なわけです。
左大臣と右大臣もそうですが、日本人の視点は、ややこしいのですが、それほど、皆さんの祖先は、頭脳明晰だという事にもなります。
本日は、古事記の中の神名の真意と、皆さん方が、古事記の元だとおっしゃる秀真伝の本意を申しあげましたが、本家や元祖よりも、皆さん方の祖先(阿耶高)の方々が、伝えたい事が伝わらなければ意味がないわけです。
教えは、皆さん方のためにあるのですから。
神社に参りますと、神殿には神鏡がありますね。
鏡に映った私は、実物ではありませんが、実物の私に気づく手がかりとなります。
すでに気づいておいでの方は、神鏡の前に立ちますと、祖先の心遣いに、目頭と胸が熱くなられるのではないでしょうか。
神鏡に気づく、復活の火鳥の写真は、お借りしています。
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