難解な話ばかりですみません。 皆さまは、私に勉強を薦めてくださるのか、何々先生の神さまの話は、とてもわかりやすい、とおっしゃいます。 ところで、シャカや孔子が、誰もが聞きたがり、話に飛びつくであろう神の話を、なぜにしなかったのかと申しますか、避けてさえいたかですが、それは、語り部が、神はこういうお方ですと、想像で申しました事を、聞き手が、そういうお方なんだという想像での受け取りである限り、神は、想像の神でしかないからです。 この事にお気づきになられない限り、わかりやすい神のプロマイド写真の、コレクションが増えるだけでしょう。 それでは、シャカは、どのようなアプローチをしたのでしょう。 仏性という捕らえられないけれど在る、その実在の私の気づきにありますならば、神の照射→スクリーンの反射から浮かびあがった影法師(映像)の私が、ああだこうだと申しますより、直接、神の光が当たっていますので、その私で在りなさい、という示しだけで、他になにもないわけです。 その示しを、祇園(氏は、現れの私の出所)とし、理解ではなく、精神の気づきの家として、祇園精舎があります。 映画の上映が成り立つ、三津(三位)の教え(映写機という実在の神の照射→スクリーンという実在の私の反射→映像という非実在の現れの私の感謝)も宗教を超えていますが、祇園は、キリスト教やイスラム教の元のユダヤではシオンであり、神道では伊勢より示される神祇であり、名宗教の個別の教義を超えているのです。 それで、油を注がれるものという意味の、メシヤの本来の意味は、油は、火を可能にする、火(日)の本の象徴であり、注連縄の示しであり、示し家(〆シヤ)という事です。 示すものに、救いを求めておられる事自体、主なる自らの尊厳(意志)を放棄している事であり、同じに、尊厳(意志)ある存在に向きあっておられる事など、伝えようもない事です。 それで、私の話は、捕らえられない話として、玉手箱のけむりのような、難解な話となります。 ただ、映画の上映が、理解できようができまいが、上映されている浮き橋(宇宙)、浮き舟(現れの私)があるという事は、スクリーンも、映写機もあるという事で、信じても、信じていなくても、神が好きな方も嫌いな方も、あなたも私も、自らの現れが、神を証ししている事に成っているのです。
yamato-567
Comments