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yamato-567

神への素朴な疑問

神さまがいらっしゃるのなら、人はどうして傷つけ合い、痛い思いをするの。 という子供の素直な問いに、正面から向き合い、お答えになられた方はおいででしょうか。 この疑問には、神は本当に実在するのか、という問いと、神はなぜ、お救いにならないのか、という二つの問いがあると思います。 救われない理由は、先ほどの投稿でお伽きいたしましたように、人は、思い通りになるロボットではなく、異なる意志をもち会話できる存在でありますので、神が、自ら詔(命令)を出して、人が八百万神(天使)を使い表現している事に手出しをなされれば、人は意志を持たない、神の操り人形でしかない事になるという事です。 逆に申しますと、神の思い通りにならない意志があるという事が、神の子としての証という事です。 ところで、神は全能だとよくいわれますが、それは、人との結びの四能だと察します。 そもそも、結びである四能(全能)が、お互いの意志の通じを意味しますので、全能は、自らの意志だけでは通らない、全くの不自由という事ではないでしょうか。 しかしながら、その不自由こそ、私たちが生きがいを感じるものでもあります。 また、どうしたら神の実在を証明できるのかの、そのヒントとして、日本人は、数万年の縄文の昔から、三津という考え方をしてきました。 仏教では、勘違いがあるといけないので、空海が、天才といわれた最澄に請われても、教えなかったように、三津は密であるとされてきたのです。 ですが、秘密は必ず示される必示(羊)だという事で、異端とされながらも、密かに伝えられてきました。 三津とは、お日さまが月を照らし、その月は水面に映っている私でもあるという、二者三立場の関係を示したものです。 その関係性が理解できますと、映る私がいる事が確かであるので、実在の私(日月)も、実在の神(日)も確かであるという気づきに至るのです。 この秘め事が、日月の神事であり(本物の月は水面に映った月のようには分ける事ができない不二、富士)、明かされる(晴れる)という事です。 このように、日本人の暮らしでは、神が宿る事(生宮)があたり前であった事が、世界ではあたり前ではなかったのです。 それで、いったんは、親子の関係から離れて、契約関係から始めなければなりませんでした。 天に召します我らが神よと、遠く祈っておられる友に、あなたはすでに、神と共にあられなければ(映写機の光がスクリーンに当たっていなければ)、あなたそのものが映っていない(ここに存在しない)という真実を伝えなければなりません。 それが、FBの友がおっしゃっておられる、勘違いの全能なる神への信への、福音(誤解を解くお知らせ)の真意です。 有り難くも、坂口の投稿を、今でもこっそりご覧になってはおいでですが、全能なる神に従順な羊となりなさいとおっしゃる、教祖の方のご意見を否定するようですみません。 また、坂口が申している事も、ただのお品書きに過ぎません。 要は、鵜呑みに信じになられるのではなく、ご自身で食事に挑戦なされ、お確かめになる事をお勧めいたします。



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