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神々を遣いとする言葉遣いは、外に発する片仮名の言の葉(カタカムナカミ)を従として、内なる八咫す(いたす)意志の迦我迦美の霊(ヤタノカガカミ)を主として成立する

  • yamato-567
  • 2020年12月16日
  • 読了時間: 2分

感動でワクワクして、一気に本を読み終えて時計を見てみますと、10分程しか経っていないという事はありませんか。 それは、何の音(響き)も発せず、言霊がはたらいている状態です。 逆に、形としての時化にはめる響きがないために、あっという間に一日が経っている事もあります。 多くの場合は後者なので、時を有効利用するという意味でも、言葉の波形としましてのカタカムナが探求されて参りました。 ところで、海の波が荒れる事を時化(しけ)と申しますが、荒れてなければ、それだけ、時間の制約も小さいのかも知れません。 その響きを感受する耳の蝸牛も、螺旋回転でありますのは、発せられる音の方にも、時化による波の影響があるためです。 それでは、荒れていない状態とはどういう状態かと申しますと、内なる霊の世界に足場があるという状態です。 その意味がわかりますのは、生から死への移行時の一瞬の間に、人生が80年だったなら80年の、人生を歩み直す体験です。 それまでの時間の常識は通用いたしません。 話を戻しますと、外なる響きを気にしすぎて形にこだわり過ぎますと、言霊の意味たる霊に、まったく足場がないという事になるのです。 もし、内なる霊に火がついていますなら、顎が外れそうなぐらいに口は、霊を主として勝手に動きます。 その響きを、古神道では言霊と申し、ただの響きの探求は、霊を主とする言霊の、妨げにしかなりません。



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