竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原と申しますように、のという字は、空間を、より細かく限定いたします。
ところで、一度は、へのへのもへじの絵を描かれた事があられるかと思いますが、その辺降る限定は、へのへのもへのへのもへのへのもへの、、、と、際限なく続くのです。
それと共に、何々の顔がはっきりして参ります。
このように、私たちが知りたいと願う知(顔)は、のにより限定され、引っ掛かり、鈍くなった呪い亀の世界です。
鈍くなったその知を、知識と認識しているという事です。
ところが、ここまでが世界、ここまでが私、何々と限定されない、より顔無しこそ、引っ掛かりのない、より速い振動の世界であり、私たちが、これまで、知ろうともしなかった、の木の知(ノ木の入口、和、無知の知)なのです。
黄泉の国で、イザナギがイザナミの様子を知ろうとした知、不可解への挑戦こそが、御祓へと繋がる事となります。
宮崎の阿波岐原の写真は、お借りしています。
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