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yamato-567

相撲は神事

半島マフィアの謀により、相撲の宝物が奪われ、熊本の吉田司家が、大相撲の神事から遠ざかって、悲しくもあり、何もできずに過ぎ去る時は、あっという間でもあります。

ところで、真剣勝負という観点からも、本場所での、相撲部屋内の対戦と同じ処置が、同郷出身者同士の対戦にも、配慮されるべきなのかも知れません。

そこを正さないと、もう相撲道ではなく、ただのショービジネスでしかありません。

私の勝手な読みですが、元横綱貴乃花氏は、そこをおっしゃっておられるように聞こえました。

このようにして、子供たちに受け継ぐ、日本の誇りもなくなっていくのだと危惧いたします。

ところで、古代、相撲は、すまいと呼ばれ、それは、神と私の住まいでもある、天幕(幕屋)という事でした。

相撲は、私たちの体が、生き宮(天幕、神社)である事を示し、形としましては、すの舞いで、十字丸螺旋回転(アロンの杖)を示しますが、私たちの息の結びが、土俵(日の丸、上円後方墳墓)△▽○△▽□としてある事が、注目すべき事なのです。

四魂四霊の玉であります、四能(熊、芳手)は、荒霊(すでに環境が整っている能力、石舞台)、奇霊(すでに荒霊で戦う能力が備わっている羽衣の事)の△▽イクムスビ、神が、私にとって何なのかを知る能力の和霊○タルムスビが備わり、他の表れにより、私が何なのかを気づかせる能力の幸霊□タマツメムスビが備わるというのが、私自身(禾、芒)で示されているという事です。

示しをみつける、みつめると申しますのは、私が私をみて体験する事という、言いまわしになります。

その芒とは、木蒼で申しますと、端にある葉や穂の事で、木は、とらえる事ができないので、先端の芒(すぅずぅうのう千由う、高千穂)をみなさいという事です。

熊本(私より上の年代)では、バッテン(曲言)に次いで、言葉の端々に使われていますのが、ホ(芒)、です。

それは、生命の木の生宮、木→ホなのですが、ツマ(備えもの、供えもの、お数玉、熊本の芳言でシャー)ばかりに注目し、肝心の、ホ(籠目)→木(龍目)の気づきに、気づかないという、本末転倒への警鐘でもあります。

地図(四能、芳手)を持った旅人が、玄関で座ら(諏訪日)す事なく、地図に夢中となり、また再び玄関(玄武、北の回転の中心、亀蛇)を探し始めるという具合に、気づくための言葉遣いです。

写真は、相撲の紙垂(四手)ですが、荒霊奇霊和霊幸霊の四能(熊、芳手)を示します。

その四手の本は、人ではないでしょうか。

それで、古代日本人は、垂らし彦、垂らし姫と呼んだのです。

今は、帯(帝の四手)〆として、四手を垂らします。

相撲道は、あなた様の本が、いったい何であるかを、本場所で角力(これまでの本末転倒の認識をひっくり返し、末法→終末→日本)しなさい、という知らせの神事です。

三輪桜井の、巨石の写真は、お借りしています。


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