世界では、宗教宗派間の争いは絶えず、その事で戦争やテロとなり、多くの方がお亡くなりになられています。
いっそのこと、宗教を無くせばよいのかと思いますが、宗教心は、人の自由意志の根幹に関わりますので、そうは参りません。
ところが、地道な方法ですが、皆さま方が得心なされ、弘法する覚悟がおありなら、方法はいくつかあります。
本日は、その一つの方法を、皆さま方と共に考察して参りたいと思います。
ところで、なぜ、大きな括りの宗教間よりも、小さな括りの宗派間の争いが、激しい殺し合いに発展する事が多いのでしょう。
それは、信者数、資金源、政治的権力などを勝ち取る時に、似た教えですと、競合しやすいからです。
自教団の勢力拡大を、神への信仰の踏み絵(証明)のように頑張っておられる方々が、気づいてはおられなくとも、勝ち取ってきた場所取りは、目に見えぬ神の心に叶うものではなく、目に見える表の場所取りばかりです。
それは、企業活動や商売の販路拡大と同じです。
いつから宗教は、本末転倒な、勢力誇示の教えとなったのでしょう。
それは宗教とはいえない、恥ずかしい事だとの認識が、世界人類に広まりますと、自ずと、宗教宗派間の争いへの熱は冷めていく事でしょう。
ところで、古代の日本人は、神への宇気比(神への伺い)を通して、神の願いは何かを察しようと勤めてきました。
それを占いと申します。
現代の占いとは異なります。
その占いこそ、表の場所取りではなく、裏の場所取りです。
裏(占)の場を取る(ウラノバートル)は、本末転倒の認識の角力(末法を終わらす終末)であり、本末に戻る(司祭→祭司)の相撲の本場所という事です。
相撲が神事でありますのは、表の場を取る戦いではなく、占の場(神の願い)を取るバトルだからです。
写真は、弘法者として広めました空海の拝ヶ石の硯ヶ水、今も続く拝ヶ石での、自らの願いを申すのではなく神の願いに生きる、神の申すを私も申す、モシモシお亀(拝め)の敬天祭(西郷隆盛こと菊池源吾の敬天愛人は拝ヶ石に参っていた菊池一族)と、相撲の神事の祭司の、阿蘇の吉田司家の仮宮です。

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