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理解では捉えられない観自在(私は在ると観る)

  • yamato-567
  • 2020年6月10日
  • 読了時間: 1分

鏡を見て、鏡に映る目を、いかように表現いたしましても、鏡に映った姿でない、本物の目が変わるものではありません。

ところが、捉えられる(捉えるは日足の影)鏡での姿を本物と錯覚して、捉えられない(影でない)本物を、虚実とご認識なさるのです。

なぜそのような本末転倒(末法)になるのかと申しますと、鏡の性質や、映るものの理解は、理解が必要でありますが、理解が、捉えるものであるゆえに、捉えられない何かを、すんでの所で、捉えたとすり替えてしまわれるのです。

ですから、自ら見る事(捉える事)ができない目が在る(私は在る)の気づきは、最後には鏡の機能から離れて、ただ、とらえられないからこそ在ると、哲学や科学の論法と逆をいかねばならぬのです。

ところで、銅鏡は、影絵を映して、この捉えられる世界こそが、影である事を教えます。

写真は、坂口の第二の故郷の、球磨のあさぎり町の天子宮の菱目紋と、珍しい金鍍鏡が出土した同町の才園古墳と、マナセの壺と思われる祭祀専用の壺の同町の本目遺跡と、夫婦岩(片仮名)が繋がった真名合わ瀬を示す同町の夫婦岩です。


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