菊池一族の城は、古代にさかのぼり古いのですが、1467年頃からの菊池一族の出田秀信からの千葉城が、歴史的には知られる隈本城です。
菊池の都は、隈府でありますが、隈本は、海に出るための城であったとも申せます。
それで、皆さん方もよくご存知の肥後手鞠唄は、肥後=熊本ではなく、火の国の肥後の中の隈本という地域の船場(洗馬)という事です。
そして、熊本は、江戸時代初期から肥後手鞠の産地でありますが、その手鞠(毬)の字は、鞠智の字であり、神の光(米)が勾玉により落磁葉(千葉城の暗示)され、米→Iが落ち曲げられる、光の仕組みを教えます。
皆さん方が神の光(米)とおっしゃる光は、実は、あなたに当たって曲げ現れている、米→光の光なのですね。
その光の化学の方向性<は来常ですが、光→米の方向性>の化かしは田貫です。
その田貫が二天一流と交わる所が隈(神を示す田、辰の奥)です。
熊本城城主の加藤清正が愛用した、菊池の剛刀の同田貫や、はじきの刺青などは、この隈への方向性を示しているのではないかと考えています。
写真は、熊本城稲荷神社からいただいた福迎え餅と、川尻神社と佐賀の鹿島の祐徳稲荷神社の熊手です。
熊手は隈手という事です。
そして隈手は、神の手(神這い手)という事です。
肥後手鞠の写真はお借りしています。
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