金の屏風に映る灯を、微かに揺する春の風。 なぜ、灯そのものの揺れでなく、屏風に映っている灯を、わざわざ浮かびあがらす表現なのでしょう。 そして、桃の花だけで、天地人と生けます。 そもそも生け花も、おかしな事をするのです。 天地と生けるのならわかりやすいのですが、なぜ、私が、私である人を生けるのでしょう。 ところで、映ろうの央には人がいます。 扇の内輪∞の内(戸)にも人がいます。 この人は、金の屏風の事です。 門を内(私の中の宇宙(心)と宇宙の中の私(体)の天地)と分ける人(境木、榊、金木、岩戸)は、春の風に揺すられる事のない、変化しない何かです。 それを、便宜上、金の屏風で表現しているわけです。 私たちは常日頃、屏風に映る灯(虚実)ばかりに気を取られ、灯の本(日本、大神)の実在や、屏風そのもの(私、人)の実在は忘れているのです。 ただ、今は白酒を飲んで酔っているので、それもよしとしよう(愛おしく愛でよう)という深い悟りが、この楽しい雛まつりの童歌には感じられます。
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