汨羅の淵に波騒ぎ~義憤の血潮を親心(公)に転じる道
- yamato-567
- 2020年12月1日
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昭和維新(青年日本)の歌にもありますように、自殺する方が後をたたれない中、権力ごときに溺れるものが政事をして、国ありての財閥も、国家の衰退もおかまいなしに海外に財を蓄える今、誰もが義憤に燃えて血潮湧かれる事と思います。 しかしながら、どのような理想を掲げ、国家の戦略をもっていたとしても、正義を掲げるところ、腐敗はすぐにやってきます。 義憤に燃えたものにもです。 昨今の政治の革命を訴える義憤の息に、革命の叫びにすでに、権力に溺れる種を見るのです。 それもこれまでの歴史が証明しています。 それでは、公なき国家を甘んじ、希望はないのかと申しますと、日本には、公であられる、天皇がおられ祭り事をされておられます。 これまでも天皇がいらしたではないかとおっしゃいますが、いらしても、祭事に、誰も息を合わせるもの、お察しするものがいなかったのです。 祭事の至誠ありて、はじめて、政事の姿勢が正されます。 国民が知らない事、参加していない事、その隙に化け物が国をつくってきました。 もし国民が参加していれば、国家に隙などありません。 義憤は熱意にかえて、国民が公ではなく、国家が公であるにはどうしたらよいか、私の毎日の提案も、皆さま方の支持を得ているわけでなく、一つの案にすぎませんが、この小さな個人から始めなければと考え、毎日投稿させていただいている次第です。

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