正義の姿を表にせず
- yamato-567
- 2020年6月9日
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建築家の坂口恭平という方が、黒曜石を触ると、熊本の金峰山(芳山)がみえた、熊本地震前に黒く光ったと書いておられましたが、河内町の黒曜石は、縄文の昔から、何千年と祈り込められてきた石です。
金峰山も、大陸の方々からは、希望山でした。
その蓄えられた思念が、地震を起こそうとする思念と打ち消し合い、黒く光ったのかも知れません。
そのように、私たちの祖先は、思念の鯰には、思念の鯰で鎮めようとしてきたのです。 いつしか人類は、祈祷という、思念による創世の方法を確立いたしました。 ところが、おかしな事に、平和の祈りと平和の祈りの、どちらが正義かの戦いの歴史となったのです。 今の現況で、争いを小さくしていく方法としましては、正義が表になる事、祭司が司祭となって司が表になる事(我が神こそ真実の神という本末転倒)、その正義の姿を表にせず、そのままにしなければなりません。 写真は、正義の姿をそのままにを歌った、河内小学校の校歌と、いつも載せています、金色の光を放った、龍目の黒曜石です。 エジプトの、鯰(祈り)をトーテムとした初代ファラオの、ナルメルの写真はお借りしています。

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