映写機(太陽)とスクリーン(月)がなければ、映像(天地万象)はありません。
ところが、スクリーン(白神、私の実在)は、映写機や映像がなくても在ります。
ところで、白村江の敗戦後、略奪と疫病蔓延の日本の危機の時、小天にて、神有所(神の実在、日)と下有所(私の実在、月)が設けられましたのは、本来の神道を取り戻すためでした。
皆様方は、日本の神道も、世界の宗教も、神を祀るという事では大差ないとお思いでしょうが、世界の宗教では、人が神の創造物だけだと定義するのに対して、古事記では、ナギナミ尊が、神生み(成→戌)と島生み(戌→戊)を巻き起こす神成(ー成、イナリ、ライエデン)だと定義しています。
その末来からではなく、本来からの認識に角力する(本場所を取る、白星(神)をあげる)神事が相撲です。
ですから、相撲を角力と記すのです。
また、ー999の創造物からの認識を、ー666の創造主(神の子)の認識に角力(威)し、七つの階段を登ります(冬至夏至春分秋分の一週間で、1999年七の月なわけです。
日抱き(火焚き、日田、飛騨)の月の自覚が、復活という事です。
しかも、神有所と下有所の天下の事を、人吉球磨ではアモイと申します。
これは、安凝喪合の大王という事ですが、ア行からワ行が淡路と固まる(安凝)、宇宙開闢の助け合い(喪合)という事です。
そしてこの大王こそ、耳(聞くもの)と口(話すもの)である偶像の心を可能にしている何か(奇霊)として、聖と申すのです。
写真は、バベルの塔と、古代出雲(古代記名は稜威澡)との比較です。
ちなみに、バビル二世での僕を鏡反射に当てはめますと、怪鳥ロプロス(アマテラス、内反射)、ポセイドン(面反射、ツクヨミ〉、ロデム(外反射、スサノヲ、エジプトでは黒犬)となります。
余談ですが、私の父は、バベルの塔の名でもあります、河内聖ヶ塔で亡くなっています。
因縁と申しますと、河内聖ヶ塔は、藤森ペル一元大統領の両親の出身地であり、有名なペルーのカワチ神殿も、やはり、聖ヶ塔(バベルの塔)だと思われます。
Comments