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日本人とは、どういう人たちであったのか

  • yamato-567
  • 2020年10月28日
  • 読了時間: 2分

西郷どんが出会った人物の中でも、西南戦争で忘れてはならない、蒼き守り人としてすぐに浮かびますのが、上田休(久兵衛)です。

民へのお触れ書きとして、申された事をあげてみます。

上田自身に不善があったら遠慮なく申し出てほしいが、他人の不善をむやみに口外してはならない。

万一、天災不幸があれば身命をとして、世話をする覚悟である。

年寄りを敬い、子供をあなどってはならない。

よく働いた時には、楽しむべきである。

しかし、過ぎると放逸になるので気をつけなければならない。

実際に、年寄り子供を大事にし、教育で活躍を支援し、また、川尻町での大洪水の時、先頭に立ち救命救助にあたられました。

そして、この町が薩軍の本陣となり、西南戦争に巻き込まれた時、民にはおそれてはならないと申し、西郷とは、物資は協力するけれども、町に火をつけたり、民に横暴をはたらかないという、取り決めをしました。

兵としては、協力的でなかったため、薩軍の中には、上田休を殺してしまえという意見もありましたが、西郷はそうはさせませんでした。

いざ戦争が進みますと、薩軍が劣勢になりますが、それでも川尻の町の人々は、官軍薩軍の両軍の傷兵の看護に当たります。

敵味方関係なく命を助けたこの地での事が、赤十字(偶然にも日の丸と薩摩十字の暗示があります)の起源となりました。

赤十字は、少し前にスイスの方が設立されていますが、日本では、西南戦争時の熊本での博愛社が赤十字の起源となっています。

さらには、南北朝の時にはすでに、南朝の軍には、敵を助ける意図がありました。

ほどなく薩軍は去り、町に平和が訪れましたが、薩軍に協力した咎めにより、上田休は斬首となりました。

町の方々の、せめての切腹の嘆願は通りませんでしたが、今も、町を救った恩人として、伝えられています。

青年の頃の私は、生まれ育った土地ではありませんでしたが、上田休が守ったこの町を拠点として、民族運動をいたしました。

上田休が守った河川敷に街宣車を置かせていただいておりました。

今は、愛犬との散歩道です。

博愛社の写真などはお借りしています。



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