帰依というシステムに気がつきますと、私が問題として戦おうとしている全てが解決いたします。
視点を替えますと、その諸問題も、方便だったというわけです。
虚空蔵から勢至(伊勢)へ、その宇宙開闢の天地元柱(八絋一宇)にいますのは、私自身です。
仏教的に申せば、網を投げて一つも残す事なく引き上げる阿弥陀仏です。
また、私は在ると観る、観自在でもあります。
その網にかかりますのは、私が殺した動物たちであったり、私が愛したり、憎んだ人たちであったりします。
何が申したいのかは、私が出会っている、捉えているもの全て、私の足から延びた影(八咫烏)だという事です。
私の影であるなら、私に帰依して当然です。
この気づきにありますと、例えば、ペットを大事にしている私の意にそぐわない、動物を虐待している人に出会いましても、すぐに怒る事なく、落ち着き静めます。
なぜなら、私を見て怒る事は、鏡の前に立って吠えている犬のようなものだからです。
ですから、毎日の投稿で長々と申しております事は、神社の本殿の神鏡の前に立ちますと、どなたもお気づきになる簡単な事です。
大事な事は、理論の構築ではなく、何でもない気づきにあるという事です。
私たちの祖先は、世界をみる時、私の一家(烏舎、ウガヤ)として捉えていました。
烏(私の足の影)は、やがて宇と変わり、烏中主烏(うちゅう)は、宇宙と記されるようになりました。
古代、狗奴(国の発声の由来)の中心が烏奴であった事、景行天皇が、ここは日本だと国名の由来となった事、アマビエに立つ時、烏羽と貝の装束を纏う事、それらは、天地万象が私から出て、私に帰依している自覚にあったからです。
それで、迦那(日本)語をお話しになる皆さま方は、御座居ます、頂きますとおっしゃるのでしょう。
写真は、日本の国名の由来となりました、宇土の御輿来海岸です。
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