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教育の基本

  • yamato-567
  • 2020年8月11日
  • 読了時間: 2分

私たちの体は、自らの意思に関係なく、私自身を守る機能がはたらいています。

古の神日手力という武道では、熟慮した考察ではなく、その思考の隙のない、その反射神経を、かばい(神這い)手と申していました。

相撲には、先に手をつきましても、相手の体を庇っているとみなされれば、勝ちとなります。

柔道でも、わざわざ、相手に受け身をとらせるように投げる事を繰り返し練習し、空手でも、寸止め、残心と申しますのは、自らにはたらいている、かばい手という反射神経に、習っているという事です。

皆さんが、生かされているとおっしゃるのは、かばい手の事ですが、実は、人は、そのかばい手の使い手の子ですので、計らずとも、同じ事ができているのです。

ところで、いじめられている子が、自らを守ろうと庇った手に、いじめようと手をあげますならば、それは、神這い手の元に手をあげているという事になります。

喩えますなら、親鳥から給仕を受けている、カラス(神日巣)の雛が、その親鳥を、巣から追い出そうとしている、自滅の道という事です。

教育の現場では、戈を止める武を、子供たちには教えるべきと考えています。

それは、戦いを放棄する教えではなく、戦わなくて済む力をつける教えという事です。

写真は、かばい手を極められたと察します、合気道の植芝翁です。

また、鶴と亀が統べると申しますのも、祀る(政る、真鶴)木である鶴の神這い手です。

FBを始めるに当たって納めました、拝ヶ石の亀石に巻いている津留の写真も、その意味です。



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