どのように人工知能が発達いたしましょうが、それで全ての問題が解決に向かう事はありません。
なぜなら、争いによって人を傷つける事が稀だった、日本の縄文時代を文明と呼ばず、戦争を終わらす事のできない社会を文明社会と呼んでいる可笑しさに、気づいておられないからです。
他の地域や時代では有り得ない、傷ついた遺骨を捜す事が難しい、その背景は何だったのでしょう。
ところで、先日、火の君の、塚原古墳歴史資料館で見た馬の埋葬状態には驚きました。
芳山の麓の遺跡を移してあったのですが、優しさに溢れた埋葬状態でした。
そこにヒントがあります。
あえて失礼ながら申しあげますと、今の世界の多くの方々は、死は、その個人の尊厳の終わりだと認識しておられるという事です。
否、あなたは、神も霊も信じているとおっしゃるでしょう。
それが宗教が陥った罠です。
共産主義は、神を否定する宗教だと言われますが、今の宗教による神を肯定する背景は、否定する背景と同じ自己都合が絡んでいるのです。
思考の壁に都合で貼りつけられた神であられるなら、その都合の神の覇権を巡って、ぶつかり合いが終わる事はありません。
縄文人は、河海に潜る時、自らの都合は息を止めたいにもかかわらず、息をさせようとするはたらきこそ、生きた神のはたらきだと気づいていたのです。
縄文火焔土器などは、その水の息苦しさに加えて、良心という火の息苦しさを神に感謝して洗礼(禊ぎ、霊と令のバブテスマ)する祭器でした。
誰彼を懺悔させたり罰を与えたりするものではなく、自らの肉体を、霊体を洗濯するものです。
それで、日本(ヤマト)の活動は、誰彼をやっつけてやろうではなく、また、救ってやろうでもなく、救いも救われるもない、許されるも許されないもない、初めから生かされているという事実は変わらないという事を、地道にお知らせし、それを広めていこうという運動なんです。
なぜ広める事が覇権でないのかは、これまでご説明した通りですが、人に伝える弘法は、単独で納得するよりも遥かに気づきのスピードがあがる事は、いずれ自ら知る事となります。
写真の磨製石器は、顕幽神三界を真釣り合わす祀り石で、石包丁が顕界(この世)、二つの斧が幽界と神界を表現しています。
それで、どのように使われていたのかは、それぞれの界(海)を割るリセットです。
目に見えるものも目に見えないものも、自らのものは自らが引き取りに行くという事です。
その石の杖を持ったモーセを追う、最強の軍勢が壊滅いたしましたのは、神やモーセが天罰を下したのではなく、個々人が、自らを自ら審判なされたのです。
捕まえて殺してやろうと追っていたものが、実は、もう捕まえられている身だったのですね。
その仕組みを申しますと、影は、八咫烏の足で繋がる本体から分離する事はできません。
自らから逃げおおせる手立てはありませんので、その石が振られる前に改心して、自ら変わるしかありません。
それで、誰も憎む必要のない、自己革命だと申しあげているのです。
また、隠れている想いも大事だとイエスも申しましたように、想いの世界の苦しみは、もし死んでしまいますと、新たに生まれ変わり挑戦する機会は簡単には訪れませんので、余計にやっかいです。
これは、因果応報という仏教の教えに近いのですが、生かされているというベースに勝つ事はありませんので、その気づきにさえあれば、自ら自らに下す輪廻も超えるのです。
そういたしますと、縄文人の気づきにあると申せるのではないでしょうか。
またそこに、争いの種となる強大な覇権国家や、豪勢な会館や信者数を誇る宗教団体が存在できるでしょうか。

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