日本人は、終わりなき世(余、私、不死)に、ずっと挑戦して参りました。
角々に、これが私、ここまでが私だという限定される認識を、これは私でないという、バッテン角力(ひっくり返し)する、角松を立ててきたのです。
それは、光の反射で物が現れてゆく行程を否定して、反射の鏡である、行程でないものに気づく手段です。
また、それは、私の意志によって成されますので、私は在ると申しております。
表現できない何かを表現していますので、誤解も生じますが、私は在るは、曲(曲玉)によりいろいろ変化し、音として現れる非実在の音楽ではなく、それを可能にする実在の楽器(月、独楽)です。
ここまでは、私の実在の認識です。
さらに、バッテン否定されるそれを、ジャッド肯定される事で、楽器(月)が音を出す仕組みには、その背景である空気(空、神日)がなければならない事がわかります。
それが日であり神の実在です。
この気づきは、想像で思考に張り付けた神ではありません。
それで、神知は自知からという事です。
神よ神よの神知を先に求める答えは、思考の神で、まずその思考の神を、バッテン否定しなければならないという事です。
外に出る現れを否定する事で、内に出ている(打出の小槌)事となります。
申しかえますならば、密の教えとは、私の映像の否定から始めて、私のスクリーンの実在、神の映写機の実在へとたどる、上映と逆の道、後ろの正面に向く道です。
縄文海進の時代、故郷を出た舟が、後ろを振り向いた時、海からそびえる三つの山に見えていました。
当時は、海のすぐそばまで、カルデラ湖であったのです。
後に預言者イザヤが示し、ユダヤ人が目指した東海の島です。
やがて、空島は、狗奴の勢力が弱まり、芳三山岩戸山から、今の韓(空)国岳周辺の、南の高千穂の岩戸へと移ります。
写真は、芳三山系の祇園山で育たれた、尾田栄一郎さんが描かれる、ワンピースの空島です。
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