上泉信綱(伊勢守)の剣術は、工夫はありましたが、その芯は、神道を元にしたものであったと考えています。 柳生は、その新陰流の正統継承者として、徳川幕府に召しかかえられたと、世間では知られていますが、実は、柳生との対戦を望んだ丸目蔵人がいて、その挑戦状は、柳生にとりましては、最大の危機であったわけです。 しかしながら、柳生が拒んだ事と、師の願いにより、同門対決は実現できず、日本各地の大名の、武術指南役を、柳生と丸目で東西に分けました。 丸目は、正親町天皇に剣技を披露し、立花宗茂や鍋島直正、蒲池鑑広などを弟子、門人としながら、立身出世が目的でなかったのは、都から離れた九州の盆地の、球磨郡錦町一武に住み、農地開墾をしていたからです。 農地開墾は、戦国時代が終わり、多くの浪人が食べていくための策であったと考えられます。 ところで、吉川英治の宮本武蔵の映画では、柳生を、続編のそれからの武蔵では、農作業中の丸目に、斬りかかろうにも、斬りかかれない武蔵が描かれています(創作)が、武蔵が尊敬していた武人であった事は確かです。 書や和歌や笛など、文人でもあった丸目ですが、武蔵も文人としての才があった事は、皆さんもご存じの通りです。 熊本武道館では、丸目の次席に、武蔵が掲げられています。 その丸目蔵人(長恵)の子孫の丸目千之助さんは、毎年のように坂口の実家の、蜜柑の収穫の今の時期に手伝いに来ていただき、武蔵が修行したこの地で、冬至の日足(新影)を眺めになられました。
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