鵜戸橘(佛々)と湧き立つ宇宙開闢は、なぜ、巻き起こっているのでしょう。
神に抱き抱えられる脇差し(神の実在、私の実在、宇宙の現れの三力)による辰神動に、抱き抱えられる私が何であるかの振信動の和合(△▽○和霊タルムスビ)にあるのだと察します。
それで、宇宙論より証拠の、私が何であるのか、それは曼陀羅で観る中心仏(古事記では中主、ちゅら)ですが、うちゅうを知る上で、そのちゅらは大事なわけです。
坂口のお伽話もお品書き(メニュー)に過ぎず、自ら食べている事に気づく事が大事です。
それで、大嘗祭で、新嘗祭で、神と向き合う食人をシラスヒトと表現するわけですが、シラスとは、白神(白骨)、すなわち、映像(宇宙)を可能にしているスクリーン(菩提)の事です。
なぜスクリーン(内裏)が現れの人(雛、日那)にはわからないのかは、私(表)が私(裏)を捉(捕)える事ができないからです。
それで、私たちの祖先は、金の屏風に映る火をみつめたり、屏風の前に座り、その後ろの正面を、私は在ると観じたのです。(観自在)
また、那人とは日本人の事ですが、日が昇るその刹那、日が沈むその刹那を観じて参りました。
映画(宇宙)の上映中は、白神を見る事はできず、また、上映が終わりましたら、見る事ができる肝腎の私がいません。
ですから、始め(葉〆)であり終わり(〆)であるその刹那が大事なのです。
日本人は、正月などの発会式で一本〆をいたしますが、始めには、もう終わっているのです。
火が起こる始めであり終わりである何かを示すため、〆シアには、火(日)の本である松の油が注がれます。
写真は、脇から生まれた、天上天下を示す須原(スメル)の神と、釈迦生誕像と、天下太平(アンモイ)を示す実家の掛け軸です。
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