太秦と柏手〟
- yamato-567
- 2020年7月2日
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太秦とは、参拝の形です。
柏手において太は、日足りて(左手)で、秦は、奉わり示す身際(右手)です。
左手に右手を添えますのは、日足りてを可能にする実在(鏡、スクリーン、白神)の何かから、右手である非実在(映像)が現れてくるからです。
それは、私はどこから来てどこへ帰るのかの、問と答えでもあります。 あくまでも左手が本で、右手が末です。 そういう事で、左手に光を当てている実在(映写機)の何かこそ、実在であるがゆえに、非実在である映像のようにはとらえる事ができない、神です。 逆から申しますと、映像である現れの私がいるという事は、光を当てられている実在の私が在りて、そこに光を当てている神の実在の証明でもあるわけですね。 神などいないとおっしゃる、あなた(幸霊□タマツメムスビ)のおかげで、皮肉な事に、神は在るの気づき(和霊○タルムスビ)に至るのです。 そして、参拝の参は、神の実在の照射、私の実在の反射(曲玉)、私の現れの感応謝(応神)の三津となります。 なぜ、天下秦平ではなく天下太平であるのかは、左手の本(太)から右手の末(秦)を統べるのが筋だからです。 写真は、古代の船頭(タギシ、神武天皇の長子の名)が、大陸から日本を目指す時の目印となった芳三山を、多くの方々が上陸なされた、弓月(ゲンゲツ)の海岸から眺めた景色です。

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