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天(アンマ)

  • yamato-567
  • 2020年7月2日
  • 読了時間: 2分

太陽観測をしていたスワラ(スハラ)の祖先は、日が昇り日が沈み、また日が昇る一日(24時間)の事を、あんま(天)と申しておりました。

ですから、空や上の空間(土地)の観念の、てんと発声せず、時間の観念の、安間のあんまと発声いたしました。

その発声が、後世には、高天原などの、あま、という発声に訛ったのだと考えています。

海もあまと発声いたしますが、海が荒れる事も、時間の概念の時化(しけ)と書きます。 拝ヶ石巨石群の麓の天水町(てんすいまち)も、小天天子宮のように、おあまでした。 大宇宙は大海(おおあま)で、小宇宙は小天(おあま)です。 それではなぜ、土地の観念ではなく、時間の観念なのでしょう。 土地には所有観念がありますが、時間には所有観念がないからです。 そうしますと、スワラ(座ら、諏訪日)したまま、朝は来ます。 皆さんが、日に何回かおっしゃいます、御座居ますという事です。 妙見な話ですが、東京は来ませんので、東京には行かねばなりません。 ところが、朝は行かなくとも来ます。 空間でも、執着がない雲は、雲がやって来ると申します。 スワラの祖先は、間という観念では、空間と時間を分けず、時空間と観じていたのだと思います。 それは、私の中の宇宙(小天、おあま)を観じていたからです。 写真は、岩戸山の鼓ヶ滝と平の間にあります、天ヶ庄(あんまがしょう)です。



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