天部の将のはたらきは、そのまま仏の生かすはたらき
- yamato-567
- 2020年9月3日
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卑弥弓呼素の呼素は、熊襲の酋長の名ともいわれていますが、呼素は姑蘇で、勾呉の、日本へ移ってからの都という意味ではないかと思います。
ところで、勾呉は、命を助けた相手への油断で滅びます。
今の日本の神道の装束などと似ている勾呉の神道には、万民の親なる神という宗教観があったのかも知れません,
それが、他国に対しても、政治的温情になっていたのかも知れません〟
されど、国は滅び、国民は残酷な目にあったのです。
他国民には温情がありましても、自国民への温情は、結果として果たせなかったのです。
人を愛すると囗で申すのは簡単ですが、戦乱の世にあって、命を助ける事が、命を奪わなければならない矛盾から、目を逸らせません。
それが、卑弥弓呼素の名の、弓の決意ではないかと思います。
戦いを避けるために、武器は放棄しろとおっしゃる方もおられるでしょう。
ところが、私たち個々をよくよく観察いたしますと、生きるために他の命を犠牲にしますし、反射的にも、身を守る行動に出ます。
実際には、自らを生かすはたらきに逆らわず、暮らして生きているのです。
その生かすはたらきに素直(呼素)である事、それは、神道ではないでしょうか。
ところで、世界の大国の国家予算に、国防が衝突する国への、平和運動枠などがあります。
昨今の、香港でのデモも、アメリカと無関係ではないでしょう。
ところが、策に苦戦している中国政府も、インド洋の島々では、インドの力が及ぶ所では、インド政府に対しての平和運動を支援しながら、自らは港湾を借金のかたに取ったりと、覇権を拡大しているのです。
そのような状況の中、国の舵取り、隣国との付き合いは大変でありますが、日本の政治を担う方々には、国民の生命と財産を守る事が、国民と国あっての憲法や、ましてや、希望的人類愛より優先されます事を、肝に据えておいていただかねばなりません。
写真は、いつも載せています、木花咲耶姫の化身といわれる、聖観音です。
普通は、武器を手にしますのは、仏ではなく天部の将ですが、直接、弓を手にしていますのは、仏は清い存在、汚れ役は天部の将の仕事という分担ではなく、戦う決意も、戦う姿も、生かそうとはたらく、仏の御心であるという示しだと、手が折れ曲がりながらも弓を握りました時、坂口自身は感じました。

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