現代人は、目先の心地よさ、または今の苦難を見て歩みますが、古代人は、海からその元の川へ、そして川の元の元泉、雨、出雲へと思いを馳せました。 火雷神(ホノイカヅチノカミ)は、その雨を呼び知らせる雷です。 その雷を祀る雨宮は、ライエデン(神成)であり、その祭場が、皆さま方がご存じのエデンの園です。 十二の斎石(アヅミ、雲を呼び出す石)から成る日本庭園は、その斎園殿(エデン)そのものです。 ところで、イスラム教(回教)で、メッカの黒石を回られますのは、エデンの園で、アダムとエバのために落とされた石だからそうですが、それより一万年以上前から続く縄文日本人の祭祀と繋がりますのは、黒石が信仰対称だったからです。 その黒石は、まさに天体を表現し、その天体には龍(龍座)に守られた天神(北極星)が輝いていました。 ところで、天皇という称号は、唐と日本が同じ時期で、どちらが先かと議論になりますが、超古代から信仰される、天皇神が元である事に変わりはありません。 その元の元、龍が守る元を辿りますと、皇に行きつくわけです。 皇とは白神の王の事で、それは、この宇宙世界を上映するスクリーンの事です。 なぜ白神をとらえる事ができないのかは、映画の上映中に現れの私が現れている時には、白神は隠れて見えないからです。 されど、上映が終わってスクリーンが露わに成る時には、肝心の、見る私がいません。 鏡に映して見える目が虚像でありますように、実在の目は、見えないからこそ在ると気づいている人が、白神の王という事です。 要は、海を渡って川を登り、空の雲を、夜空の星を探し、辿り着きます彼岸は、実の私(皇)だったという事です。 写真は、熊本邪馬嘉のチプサン古墳です。 天神(写真右の七つの円盤)からもたらされる雨は、やがて川となり、それを飲みますと乳(写真左の大きな目玉のようなもの)が出ます。 乳は命を育てます。 それで、乳と蜜の流れる川ではなく、乳の流れる密なる川です。
yamato-567
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