神社の本坪(鈴のついた振り綱、鈴緒)を見ますと、自らが何ものであるかがわかります。
すぅずぅう(鈴宇→う千由う)と花火のように爆発した宇宙の、最後の言延び(誕生)を、振り返す意志を行使できる(魂緖を持っている)という事です。
難しく申しましましたが、自らに、意志があるという事です。
そもそも命とは、意志(命令)で動かしている、とも申せます。
ただ神鏡で反射して、命に意志がついてきているという、錯覚(マーヤ、まやかし)が起きているのです。
それでお榊(逆木)は、半回転しまして、神鏡の本殿にお供えする(最初の半半回転して立てますのは、表裏の宇宙世界の境を観る)わけですが、命じている私が、命じられている私でもある気づきです。
その命じられている、命を、運命をいただいている私(御言)を感謝する事はもちろん大事ですが、意志を行使しているもの(御子)である事を忘れていませんか、という事です。
失礼ながら一部の皆さんは、最後の審判が下って、自らや自らのグループは天に召されて、悪者たちは地獄に落ちろと願い祈り、その時を待っておられますが、最後の審判は、これまでも、これからも、いつも自らにあり、その判断をするのは自身ですよ、という事です。
あなたが運転している車が路肩に乗りあげ、ひどい目にあっていて、早く、あちらこちらの車の運転手に、裁きを与えてくださいと叫んでいるようなものです。
車を運転しているのは私であり、また、車に当たり散らしましても、自らが困るだけだという事です。
今の顕れの世界のお知らせを見て、神鏡で自らの事が逆さまの他人事と映った映像を、もうー度、神鏡に映し返して、自らの状態がどうであるかを知って、自らが判断(審判)し動くという事です。
もし神が、私の意志に手を加え、操られているのなら、裁きそのものが、意味のない、自作自演となります。
私が操り人形でなきゆえに、無条件で平等な法則の宇宙の舞台が、おもいがけない、違う意志での舞いを観る、驚きに満ちているのです。
そもそも裁きとは、判断であり、待つものでも、不満をぶつけるものでも、正義の制裁を与えるものでもなく、今ここにある自らへのお知らせを見て、自らの意志を行使する事が、最後の審判という事です。
また、天命とは、自らの最初の審判である意志という事に成ります。
天命を知ると申しますのは、最初と最後の二段の餅の、葉〆(ウラジロ、鏡に映った寿形)を知り、真釣り合わせるという事です。
写真は、何度も載せますが、岩戸山の入口(出口)の平(ダイラ)の水車小屋です。
水車の箱入りで運命と運ばれている水(私)の、そもそもの動力は、水(私)であるという事です。
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