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天の浮橋(荒霊)に立たしめて

  • yamato-567
  • 2021年3月3日
  • 読了時間: 2分

本日は、雛まつりですが、日本人は、なぜ屏風を立てたがるのでしょう。

ところで、アマテラス神の照射は、神鏡(屏風)の内反射では、アマテラスのままですが、外反射では、スサノヲの吹き荒ぶ荒霊となります。

ところが、ここには、射はありましても、言が付く謝は、まだないわけです。

その事で、豊受の感受としての謝(意識)があるところ、すでに荒霊としての世界があります。

妙見な見識とお思いでしょうが、私たちが、どんなに頑張っても、私の意識のある所、すでに荒霊の世界があります。

荒霊の前を知らないのです。

その先まわりのはたらきを八百万神(速神)と申して、武道などでは、その先まわりでもある、かばい手を習ってきたわけです。

空手道や剣道の残心、柔道の受け身をとれるように投げる技、相撲道には、そのまま、かばい手という技があります。

そのかばい(神這)手が、屏風の技で、のろまな亀がどのように遅くても、最後の意志決定は亀にあるのですから、亀(座らした北極星)は、宇宙の中心であり、回る速神に勝つ、正勝勝速日という事です。

ところで、いじめに合う子の手にも、速神のかばい手がはたらきますので、いじめるという事は、神を相手に戦う事となります。

また、いじめようと、手をあげようとする子にも、速神がはたらいていますので、かばい手に背く事となり、意識の言吹きは、意気(息)苦しいものとなります。

武道が戈を止める道であるのはそのためですが、教育に生かしますと、いじめは小さくなっていくと考えています。

その教えの中心が、屏風であり、合気道の植芝さんが、天の浮橋(荒霊)に立たしめてとおっしゃったのは、屏風に立た占めるという事だと察します。

写真は、全国の八幡社の総本社である宇佐神宮の、大元の熊本の菱形池と、その目前の屏風岩仏です。

余談ですが、日本語は、形容詞のように、餅のようにくっ付きやすく、さらには、外国語にもくっ付きやすく、軽くなるものは、空ァ山ァと、重くなるものは、海ィ大地ィと、そのアイの錬磨を母音で締切られ、さらには、動詞は、すべてウ声で抱き締められ、日本語は、荒霊△▽を菱形◇として整える(餅つきする)のです。

そして、神は、カァミィとして、共にあります。

その時、△▽イクムスビは、神を知る能力である和霊○タルムスビと結び、他を知る能力□タマツメムスビとの結びで、六芒△▽○△▽□の真名瀬となります。

それは、片仮名である言との出会いにより、片仮名でない、真名の瀬(玄関)を知るという事でもあります。



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