因果を超えた何か
- yamato-567
- 2020年7月14日
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友がおっしゃるように、因果律がはたらいている仕組みは、深く受け止めねばなりません。
我が身かわいさに、人を苦しめたり、人殺しが横行する事が、称賛されてはなりません。
ところで、私たちの善果悪果の判別は、いかがなものでしょうか。
例えば、風邪の時、主な症状として熱がでます。
熱での苦しみは、油断の報い(悪果)という見方もできますが、熱そのものは、私の体を守るための、反射作用です。
もちろん、脳炎を起こすほどの高熱などの場合には、熱を下げる対処が必要という、場合にもよりますが、私たちが、私たちの目先の都合の損得、一喜一憂、善悪の判別を超える所で、生かされているという知が、熱が悪果か善果かという判別より、より重要ではないでしょうか。
その、生かされている知を、芳野の民は、和霊○タルムスビと申して参りました。
それでも、信心深い方の中には、因果律という言葉に、今、体が不自由なのは今世の私、前世の私の罪の報いなのだと、悲観される方もおられるかも知れません。
ところが、因果律を説いた釈迦の、サカ族も滅びました。
要は、良い結果、悪い結果の、善悪の果の実を超えた存在であるのが、あなたの実在(本の実)という事です。
写真は、当時の修行の善悪の判別としましては、堕落(悪因)なのでしょうが、今の私たちにとりましては、善因となる、スジャータがシャカに、乳粥を供養する所です。

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