八百万の神の調律
- yamato-567
- 2021年3月9日
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地球人類が、あまりにも単純明快な事を、何千年と曖昧に放置してた事が、宗教間の認識の違いからの対立や、争いを生んできたのです。
神をただ神と申します時には、とらえられない実在の神です。
それをとらえたとするから、誰かの想像であり、または私の想像である、思考の壁に貼りつけた神を、崇拝する事になるのです。
その私唯一の神が、あちらこちらに生まれ、ぶつかる仕組みが、戦争後を支配する、ノウハウを持ったものたちを、これまで利してきました。
はたらきの神と申します時、それは私がこの世界で暮らしていくための環境を整えてくれる神です。
マクロの遠い星の運行から、ミクロの細胞や素粒子に至るまで、私のいる所、はたらきのない所はありません。
はたらきの神は、何一つ、えこひいきはなく、また、はたらきの対価としての要求が無く無条件です。
それは法則であって、守護という言葉をあてはめても特別扱いされるわけではありません。
よって、頼み事をしても何も引き受けてはくれません。
はたらきの神を八百万の神としているなら、無条件にはたらいているわけで、守護という特別な枠があるわけではないのです。
それを特別枠、この神だけが私を守ると取り分を主張する時、人霊の神のセールスマンが戸口を叩きます。
人霊の神と申します時、自我があり、意志があり、言葉を使い、頼み事にも応じますが、無条件と限らない契約としての取引が生じます。
その取引をこちらの都合で申せば、守護という事になります。
申し上げました、在る神も、はたらきの神も、人霊の神も、こちらが八百万の神として、ごちゃ混ぜの理解であれば、在る神のフリ、はたらきの神のフリをする人霊の神と、契約を結ぶ事になります。
その人言を吐き、病などを治し、その対価を要求する、在る神やはたらきの神のフリをした神は、たとえ利を恵んでもらっても、多くの信者がいるとしましても、その関係は、在る神と人の親子の関係ではなく、また、はたらきの神と人との生かし、生かされる関係ではなく、人霊と人との支配の関係です。
その支配の歪んだ関係に快楽を求めるがゆえに、神と人との和霊の関係、人と人の幸霊の関係が崩れ、法則であるはたらきの神の、無条件に元に戻そうと調律するはたらきと、ぶつかるのです。
その時、多くの方々は、ぶつかった八百万の神のはたらきを、悪神や祟り神の仕業と、誤解なされます。
その誤解を解かない限り、障り(差割り)の種は蒔かれ続け、障りを消してゆこうと、気づきのお知らせと現れた、八百万の神の調律を災いと見る、おかしな認識となってしまいます。
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