信長の法要を和歌で行なった細川幽斎と、細川家の前に熊本を領地とした加藤清正の思惑
- yamato-567
- 2021年3月8日
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本能寺と、種子島の鉄砲寺と、熊本の芳山の加藤清正の菩提寺の本妙寺は、姉妹寺として繋がっていました。 秘密裏に行われた本能寺の地下工事は、信長には恩を売られていた、太政大臣近衛前久が知る事でありました。 それはどういう事かと申しますと、近衛と繋がる細川、光秀はもちろんの事、本能寺を知る加藤清正の義親の、秀吉も知る事であったという事です。 比叡山を焼き討ちするなど常識を打ち破る、それまでの国体を脅かす存在となっていた信長への、裏の包囲網が出来ていたという事です。 それではなぜに、光秀と秀吉が戦う事となったのでしょう。 私は、さらにその裏の密約が 、光秀と家康との間にあったのだと考えています。 また、家康は、自身が信長から命を狙われている事を知っていましたので、信長を終わらせたい動機と共に、光秀を信じきっていない中での、賭け事であったのだと考えています。 家康が逃げましたのも、半分は万がーのための安全策と、光秀と秀吉の出方次第もあったのだと考えています。 有り得ない事ではありますが、もしも家康が、信長、領地周囲の敵対する大名にバレずに大軍を進めていましたのなら、また、事態がもう少し緩やかに進んでいましたのなら、山崎の天王山の決戦は、家康と光秀の連合軍対秀吉軍の構図だったのかも知れません。 また、細川が、光秀と身内でありながら、朝廷と繋がっていた秀吉側との間で、中立という秀吉有利の立場を取りましたのは、苦渋の決断ではあったとは思いますが、光秀、家康という武家の天下の方向性であれば、朝廷を中心とした、自領地には安定した政事の復活の思惑を裏切られる事になるのですから、仕方ありません。 その後、豊臣家が秀頼の代になり、家康との二条城での会見で、秀頼の後見人の清正が、毒抔と毒饅頭により殺されましたのは、秀頼の正統性(信長への裏切り)を家康から問われた事で、秀頼を守る意味で毒抔を飲んだ事と、それでも死ななかった清正に、土産として毒饅頭を持たせたのは、家康側からは、裏の裏が明るみになる憂いをを消し去りたいとの、思惑があったのだと考えています。 写真は、誠を尽くした清正公の像に、青龍が昇っている所です。

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