在るから鳴る言(成る事)への移行を手伝う神を、八百万神(天使)と申しますが、戊(坂戈)から成への間ですので、戌という事です。
それで犬神とも申します。
人は、有史以来ずっと、使いの犬神に仕えてきたわけです。
滝沢馬琴の、南総里見八犬伝の元の話では、犬神のほうが仕えるものである、人が、犬神を可能にするものである気づきに至ります。
ところが、人はずっと、地位や財産などの、死ぬ確率を減らすものを人質にとられ、その奴隷となって参りました。
ただ、それだけでなく、心の救い、魂の進化の実現という、二重の仕掛けの鎖があるのです。
物質的に恵まれなければ、魂だけでも救われたい、私は、霊的進化に生きるという物語を生きる事になります。
TVや映画館のスクリーンが、放送や上映が終わりましても、変わらない実在でありますのに、進化という安心できるものに寄りかかり、映像という非実在に、変化に、私を固定してしまいます。
それが鎖の因です。
鎖につながる事も可能、という気づきもありますが、進化も進歩も、次元上昇も、メシアや宇宙人の救いも、変化するものでありまして、その物語を可能にする、変化しない、あなたがなければ、あなたが救われる物語もないわけです。
映像(非実在の変化するもの、浮世)の体験を可能にしているスクリーン(白神)の、実在のあなた(変化しない金剛密)は、気づいておられないけれど、言の命令(勅)を出しているものでありますので、命(みこと)という事です。
命とつけられてきましたのには、そういう、気づきの背景があったわけです。
また、神社での参拝は、○○を叶えて下さいの願いのためでなく、私が○○をいたします、大神さま、使いの神々さま、ご照覧あれという誓い(ご誓文、方針発表会)だと考えています。
そもそもの話ですが、神さま信じています、に続き、どうか○○を叶えて下さい、または、私の罪をお許し下さいという祈りは、どこかおかしくはないでしょうか。
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