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yamato-567

交差する対称の世界∞を、世界たらしめる点なき点、境木(榊)、火の元

動静引弛凝解分合の八力も、動に対して静と申しますように、比較が、力の現れ(比日木、開き、比日密土)の正体です。

その比較ができますのも、私に、鏡として観る本性があるからです。

ところで、火(火の神)と水(水の神)として、片である事が現れですが、火水(カミ)として片でない、次の前の一くくり(女)、乙の前の女、女→次(姿)から姿→姿でない何かへの挑戦が、鏡よ鏡さんの、真の問いです。

ところが、皆さんは、鏡により現れた姿形に魅せられて、鏡として観る本性、鏡(目)そのものには、関心をお持ちでないようです。

その、映し現れた世界(二天、竺紫、儁像)ではなく、映す元の、私(鏡)とはいったい何なのかの挑戦をしてきたのが、日本人という事です。

それは、現れた火ではなく、火の元(日本)への挑戦という事です。

メシアに油が注がれますのも、火の元に気づいているものだからです。

写真は、球磨のあさぎり町の、繋がった夫婦岩です。

真の鏡石の意味を示しています。

モーセの石板も、蘇陽(山都)の幣立神宮の石板も、十字螺旋回転のす形の、片道からの反転(二天一流、不二)への示しです。



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