世界で最も、理解で紐解く事が困難な古事記とアマビエ
- yamato-567
- 2020年6月21日
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高天原に神つまりますは、高曲(真我)原の事で、あくまでも、便宜上での表現ですが、捕えられない何かです。 妙見な話ですが、宇宙(高天原)は、私(真我)から来常(稲荷、生成、常立)して、私に帰依(田貫)しているという事です。 この仕組みを、いくら説明いたしましても、理解できるものではありません。 あなたを、あなたが捕まえたという表現の理解が困難なように、スクリーン(白神、真我、内裏、高曲原)そのものと、そこに映る映像(土俵、高天原)が、表裏一体なのは、理解を超えています。 現れた(映された)私がいる時は、スクリーンは隠れて見えないですし、映像が終わった後は、スクリーンだけでありますけれど、それを見る肝心の私がいません。 ところで、日本(那)人は、日の本、日子(彦)の名の通り、日の出、日の入りを拝みますが、その切り替わりの刹那(生まれかわり)に、高曲原のヒントがあるのです。 それは、昨日の投稿の嶽(アンドロメダ、籠目)→日(太陽、龍目)という事でもあり、天の岩戸開きという事でもあります。 球磨の先の宮崎の高千穂で、この口伝をしていた稗田阿礼こそ、殺される事を知りながら古事記編纂に出向いた、真の日枝(天日枝、アマビエ)でした。

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