これまでも外国の方から、いくつものご質問をいただきました。 日本語の理解も大変でありますのに、毎日読んでいただきありがとうございます。 皆さんがおっしゃるように、日本には、あちらこちらに神が祀られていて、その神々がそれぞれ創造の神であるなら、いったい私はどの神に創造されたのでしょうという問ですが、理解には隔たりがありますので、本日は、まず、一神と多神の考察からは入り試みてみます。 私たちが、思考でこれが唯一だと限定して認識するものは、非実在です。 なぜなら、これが唯一だというものは、認識の違いで変化するものだからです。 万民の思考が一致するでしょうか。 それぞれの思考の神になり多神です。 また、私の神を一神としますと、異邦人の神は神ではない神という事になり、それも多神の認識です。 神でない神は悪魔という認識になり、神対悪魔の正義の戦いで滅ぼさねばならなくなります。 日本人は、神は分けるものではないとして、全てを神の天幕の内としますので、あらゆるものが神のはたらきであり賜物と受け止めているのです。 それは災いとして私に仇なす神のはたらきもです。 神はこれだと限定しないので、全てが神のはたらきで一神になります。 実は一神教と多神教というのは、観念の違いで、私たちがどのように理解しようと、神の実在が変わるものではないというのが真実です。 そして、実在であるなら、そのはたらきとしては無限にとらえられても、表現されるものが非実在である以上、これが神だと限定するのは不可能です。 それで、私たちはお察しするしかなく、私たちが死にたいと願いましても、心臓は動き、太陽は昇りますので、その無条件のはたらきの代表として、日本人は太陽を礼拝してきたのです。 それは同じに、無条件に生かすはたらきが、神の意志ではないかとお察しするのです。 その意志に習えば、条件づけて、宗教的律法に従わなければ罰したり、殺すというのは、違和感があります。 赤子や幼な子などは、最初から戒律も理解もしていませんし、命令に従うわけでもありません。 創造し生かすはたらきは、たとえ理解なく従う事なくいる存在でも、守り愛する存在です。 また、創造は意志のはたらきです。 意志がなければ、創造される事もあるかないかさえもわかりません。 そして意志が個々の私にあります。 判断を誰かに委すことはできますが、それも意志です。 私たちは、創造されただけのロボットではなく、創造する意志を持った存在です。 誰に創造されたかの問に挑戦いたしますと、誰と限定されない神と、これが私と限定されない私という事になります。
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