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一人子(大和、日本)の気づき

  • yamato-567
  • 2021年2月27日
  • 読了時間: 3分

皆さんは、なぜ、日本の日には、口にないーがあると思われるでしょうか。

また、本にも、木にないーがありますね。

それは、烏(顕幽神三界の影)にはないーが、鳥(斑鳩)井にはあるという事と同じです。

ーとは目です。

それは、皆さんが認識しておられる目ではなく、認識しておられない目です。

火(見るもの)と水(見られるもの)とに分けたものでなく、火水のーです。

それを皆さんは、統合、調和などと表現なさるでしょう。

ところが、ーは、耳(聞くもの)と口(話すもの)が同じ耳囗の心でもなく、その主なる聖です。

森羅万象は、主なるあなたの一家であり、それを可能にしている何かは、統一して合するものでも、調律して和するものでもない、元々在る何かです。

努力により勝ち取るものでない何か、元々の何かこそが、真実の実在のあなたでありますので、本来は、あっそうか、という気づきだけでよいわけです。

ところが、認識できるものこそ実在で、認識できないものが非実在というご認識が、多生の暮らしで、習慣付いておられるのです。

先ほど、気づきは努力するものではないと申しましたが、まず、この習慣を変えるのには、並々ならぬ努力がいります。

それで、多くの先人(修行者)は、命懸けの挑戦をしてきたわけです。

ただ簡単に気づきがあるものではないというご理解の上、修行も、意味のあるものにするための手順があります。

それは、客観的に認識できる、神経に習う事です。

例えば、いじめっ子が手を挙げて、突先(鳥坂)に庇う手が出ましたなら、その無条件に出た反射神経は、神の意志です。

ですから、神の意志に逆らういじめはしてはならないわけですが、武道におきましては、例えば、柔道におきましては、投げておきながら、相手が頭を打たないように庇う練習をするわけです。

昔の相撲では、特に横綱などは庇う姿勢が問われ、庇い手という決まり手もありました。

剣道や空手道における残心も同じです。

己と敵とに、調和をする道に命をかけたものこそが、調和を超えたー(大和)の気づきに至るのです。

皆さんは、せっかく日本(ヤマト)にご縁があられましたのに、その道(庇い手の運動)に、ご参加なさらないのでしょうか。

OO家を代表して、日本代表に選ばれになられて、ピッチに立ちながら、観客や先祖の応援団と同じようにボールに触る事なく、手も足もお出しになられないのでしょうか。

立ちたくても、まだ時が浅く、競技場に近寄る事さえもできない方々が多いのです。

観念も大事ですが、観念で庇い手ができない事はおわかりだと思います。

写真は、今朝一番の祝花の配達先で写真に収めました、人吉球磨の郷土玩具の雉馬です。

猿(知)、犬(情)、雉(意)の雉が、なぜ大事にされ、稚児を乗せていたのかは、幼い頃から、行動が大事である事が教えられてきたからです。

祈りの言霊(真意)は、意乗りです。

雉馬は、悟りの目が強調され、一人子(大和、日本)の気づきの大があります。



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