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タイ捨、捨て奸の精神

  • yamato-567
  • 2021年1月25日
  • 読了時間: 2分

武人が割拠する戦国時代におきまして、柳生宗矩の新陰流は、異彩を放っていました。

その後、柳生の本流を東西に分けたのが、丸目蔵人のタイ捨流でした。

大和の柳生と、球州の丸目の縁は、遠き古代王朝の、遷都の縁のように思えます。

先程、丸目が球磨の田舎を開墾した話をいたしましたが、タイ捨流の開祖でありながら、剣を鍬に持ち替えていましたのは、剣の道に限らず、あらゆる職業を超えて、範とするべきと思います。

ところで、錦町一武の隣村の、あさぎり町深田内山から、島津に嫁には入った千手の局の子、島津家久は、捨て奸と呼ばれる戦法を使い、関ヶ原では、その子、島津豊久が、形を変えて使い、薩摩の退き口と呼ばれています。

西郷どんで出てきます、薩摩の示現流は、丸目のタイ捨流に習って、しかもタイ捨流に対抗しているのですが、そのタイ捨、捨て奸の精神こそ、神風、日本精神の根底にあるものです。

そこで、なぜ体捨ではなく、タイ捨なのかですが、体を捨てると記しますと、体を捨てる執着と成ります。

体を捨てる事をタイ捨とは申さないのです。

むしろその逆です。

それゆえに、タイ捨と表記すると、丸目千之介さんからお聞きしております。

写真は、景行天皇がお水をお飲みになられた天水です。

丸目の錦町と千手の局のあさぎり町の境付近にあり、近くの天子宮には驚きの紋があり、また、近くの古墳では、金鍍鏡も出土しています。

私も、母の里へ帰省のおりは、天子の水公園へ立ち寄ります。

小天と球磨、二つの天水は、タイ捨の、日本精神で繋がります。

写真は、昨年春のものです。



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