幼き頃、まだ日が明けぬ暗い、修験道者が歩いていた険しい山道を、祖母に手を引かれ参った毎月28日のお不動さん参りでは、赤飯がいただけました。
食い意地がはっていた私は、赤飯を食べますと、いやいやながら参った想いが、いつの間にか吹き飛んでいました。
その赤飯に意識がいっていたのか、雨あがりの下り道、一瞬の事、滑り落ちました 。
ところが、一瞬ではありますが、体が宙に浮いたのです。
それまでは、夜明け前でもあり、洞窟の中の閻魔洞も含めて、仁王像など怖いものばかりでしたが、そのものは、私の独楽(狛)の芯から新たに延びてゆく、影法師(新陰)である事に気づいたのです。
私がいなければ、その影もありません。
宇宙開闢から、数十、数百億年たっているといわれますが、私の方が、古い元という事です。
その視点と面が一つとなる事を、八咫の鏡の三津目と申し、仏典では、十八面の観自在のうちの、不動の視点(面)と申すのかも知れません。
タカマガハラの曲玉により、タカアマハラと現れる世界は、釈迦三尊(息の回収では網蛇仏の阿弥陀三尊)の、虚空蔵から勢至への息(馬、生ま)追いですが、その息は、私の意識の目覚めが発端です。
それでは、不動明王だけでなく、阿吽の息でニと分けた仁王、牛頭王、先祖である閻魔さまさえも怖い顔なのは、私たちの罪と呼ばれるもを咎めて、お叱りになっておられるのでしょうか。
そうではなく、あなたの私の、決意のお顔だと察します。
実は、あなたの私の挑戦の決意(精神、如意)により、世界は現れ(如意棒、宝輪)と成り、あなたの私の実在が、世界を浮かしているのです。
浮かされているという、今の私たちの認識は、本末転倒で、逆立ちをしているという事です。
写真は、岩戸山のお不動さんと閻魔洞、霊巖洞、五百羅漢です。
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