top of page

阿多の姫

  • yamato-567
  • 2020年6月21日
  • 読了時間: 2分

北と南とある高千穂は、どちらが本物なのでしょうか、それと木花咲耶姫は実在の人物でしょうか、という問ですが、古事記の中では、内鏡の暗示の、イワナガヒメと相対する、外鏡の暗示の、コノハナサクヤヒメは、あくまでも教えとしての設定ですが、薩摩の阿多郷の金峰三山は、実存した木花咲耶姫の故郷です。

そして木花咲耶姫は、富士山本宮浅間大社に祭られています。

浅間大社には、竹取物語に似た物語があります。 竹取物語は、熊本の元の熊襲の本拠地の、芳三山の金峰山の麓の竹崎で、修行をしていた空海により生まれたのですが、何度も投稿しておりますが、芳三山の縄文の竹を取る教え(籠目→龍目)です。 木花咲耶姫が、縄文の姫と呼ばれますのも、縄文の教えを携えていたからです。 証拠となる品も載せてきました。 その肥州高野山竹崎に安置されている聖観音は、富士から来た木花咲耶姫だといわれています。 口と耳が同じ(見るものと見られるものが同じ、王仁の気づき)聖は、大陸神道の暗示です。 富士の藤原は、大陸から来た阿蘇氏の子孫ですが、ややこしい事に、薩摩の阿多と同じ今の熊襲(球磨)の本拠地の統治に来たのは、富土の藤原南家の相良(人吉三日月城)です。 球磨は、阿蘇氏が大陸に出て戻る前の不二原でしたが、統治により、阿蘇となります。 阿蘇は、阿多が元であり、すべては権威のために、大陸の蘇り、阿蘇氏の藤原が元であるかのように画策されたのが日本の歴史です。 ただ、大陸の蘇りの蘇も、熊襲(曾)の襲も、同じ意味であるのは、私の竹取物語の、籠目から竹を取って龍目に成る、蘇りの話をお読みくださればわかります。 話は戻りますが、襲(曾)と蘇があるため、天の岩戸だけでなく、高天原と一般的に認知されている高千穂が、球磨の先と、阿蘇の先と、ニヶ所にあるややこしい事になっているのです。 いつも高千穂の道を尋ねられて、どちらも時間的にはあまり変わりませんので、どちらの高千穂ですかと、尋ね返さねばなりません。 写真は、相良のヨウラから嫁に来た富士江の娘の、遠江(静岡)に因んだ名の静子の息子の、富士の木花咲耶姫が乗り移ったとされる竹崎の聖観音と法具を持つ手が重なる、ややこしい話をする熊んモンの私です。



Comentários


記事: Blog2_Post

Subscribe Form

Thanks for submitting!

©2020 by 日本(大和)。Wix.com で作成されました。

bottom of page