自然を見渡しますと、空気に汚れがあれば、雨風がそれを祓い、土に汚れがあれば、虫や菌がそれを祓います。
その汚れも、人がかってに汚れと思いこんでいるだけで、自然を維持する営みの一員であり、循環の木綱です。
例えば、二酸化炭素は、動物にとっては汚れでありましても、植物にとっては生命の維持に欠かせないものという塩梅にです。
その植物の汚れの酸素がなければ、動物も生きられないのですから、観念や思い込みでの好き嫌いによる汚れの判別も、真実を得ていません。 元々、気流柔剛の生成化育と分解回帰のはたらきは、人の意図なく自動でおこなわれますが、人はそれを遮断して暮らしを築き、文明を築いてきました。 田畑を開くのも、家を建てるのも、庭に花を植えるのも、水槽で魚を飼う事も、自動を手動にかえる遮断です。 人が生き暮らしている事が、すでに自然の循環を止める障りです。 それで、日本人は、その差割りを差取るために、あらゆるところで、自然の自浄(御祓)に習い、真釣り合わせをしてきたのです。 家を建て替える時も、正月の玄関にも、日本人はあちらこちらに神を祀るので、日本人は、神に対する貞操観念がないとおっしゃる方もおいでですが、勝手な思いの貞操観念以前に、自然に素直に習おうとしているのです。 現れている自然を見ずして、どこで神と出会い、神の姿を見るのでしょう。 人がこしらえた祭壇の中でしょうか、教祖様にでしょうか、それともあなたの思考で想像(創造)された、あなたが貼りつけた神にでしょうか。 自分と分けた観念に、自分と分けた想念に、一神として神を祭るのは、私の観念、私の想念に習うのであって、私がこうであって欲しいと思う神、私の都合の願いを聞きとどけてくださる、自分の思いの神に習っているのです。 皆がその習いで、私たちが生きる基盤である自然は、維持できるのでしょうか。 末の思いの神にではなく、自然の、命の維持を可能にしている本ものにこそ、習うべきであり、それが、自らを我が神と我に分けた、我が神の思し召しの、我が思う通りになるための戦争が終わる道です。 そうすれば、監獄だ、地獄だ、悪魔の棲む森といわれ続けた世界も、太古の昔、縄文人が祭り合わせていた時のように、エデン(祭園殿)は、鎮守の森である、神々(天使)に守られた世界である事に気づくのです。 なぜ守られるのかは、神々が天の使いと表現されるのかは、あなたが、神々(天使)から守られるほどのお方だからです。
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