宇土と天草の不知火海に面した海を、伊勢海と申すのですが、祖父は、天草だけでなく、漁船で芳山からは向かいの島原へ行く時も、伊勢海と申しておりました。
子供の頃は、相当な方向音痴だなあと思っていましたら、大人になってみましたら、伊勢海の天草姫戸には、矢岳巨石群がありますが、島原にも、巨石群があります。
そこへ行く海の参道を、伊勢海と申していたのだとわかりました。
漢字にいたしますと、出雲の威なのか、倭の委なのか、わかりかねますが、ドルメンですと、あくまでも、超古代の巨石の真似事ではありますが、日本では最も古い部類のものが、島原にはあります。
これまで、ドルメンは、人が持つ四能(熊手、熊はヨシと発声、ヨシテ)の一つであります、荒霊(すでに環境、舞台がある能力)を、石舞台で表現していると申して参りました。
その荒霊の石舞台(浮き橋)と奇霊の舞人(浮き舟)には、大小の器がありますが、その器は、実体のないものです。
夢の中の怪獣が、いかに器が大きくとも、夢から覚めてしまいますと、器の大小は関係なく、もう消えていません。
真の器は、夢の中にいない、夢の中の私がとらえられない何か(夢をみている私)でした。
あくまでも、観自在(私は在ると観る)にも自があり、鏡にも、ガがあります。
現れた宇宙そのものには、高天原として、何かにエコひいきする我はありませんが、それを現す事を可能にしている反射鏡は、高曲原(タカマガハラ)として、ガがあります。
私がいったい何であるかを知ろうとする知も、我でしかありません。
人類は、我を無くす事に励む、それも我ですが、現れの私、便宜上小我と申しますが、小我を見下して、何か高いものを得る事ができると、誤解してきたのです。
内観が悪いわけでなく、要は、無理に無理、夢の中に夢を重ねてきたという事です。
その回天は、私は小さい、または、私は宇宙大であるという想像や、自他合ーであるという、肯定された想像の中の私ではなく、それでない何か、否定の何かという逆転の認識です。
島原の原山ドルメンの写真は、お借りしています。
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