証し
- yamato-567
- 2020年7月8日
- 読了時間: 2分
そのお方は、私が答えに窮するとお考えになり、神などいないだろう、いたらみせてくれ、とおっしゃったと思われます。
私は、そのお言葉が終わらないうちに、その通りですとお答えいたしました。
それで、失礼ではありますが、通じましたのは想いだけで、言葉は最後まで聞き取れなかったので、思われます、という事です。
本題には入りますと、実は、この世界は、認識できるがゆえに、非実在なのです。
例えば、鏡に映ったあなたを認識する事はできますが、鏡に映ったあなたは、非実在です。
ところが、それを認識した目の実物を見る事はできません。
ですから、認識できないがゆえに実在なのです。
親神は実在であるため、認識できないという事です。
それでは、認識できないというのに、どうして、神は在ると言えるんだ、となります。
実物の目は見る事はできませんが、目が在るという事には、何の理屈も必要なく、本人であれば、気づく事ができます。
それは、本末転倒(末法)の末からの方向性でなく、本からの方向性という事でもあります。
ここで、あくまでも便宜上で、実在の神を映写機、実在の私をスクリーン、現れの私を映像といたしますと、映像の私からは、映写機の存在などわかりません。
それで、思考が想像した思考の神となるのです。
ここで、霊的感知力があられる皆さんがおっしゃる神も、現れの神で、実在の神ではありません。
ただ、実在の神の照射は、その神の光(米)が当たっているスクリーン(私の実在、白神)だけが気づいているのです。
その米(曲玉、勾玉で曲げられIを落とされる前の光)の理解が、鞠智(菊池)という事です。
ところで、逆さまに見ますと、現れの私の映像があるという事は、スクリーンである私の実在が在る(観自在)という事であり、映写機である神の実在が在るという事を、間接的ながら証しいたします。
皮肉な事に、神などいないとおっしゃる、あなた様自らが現れになられて、神の実在を証してくださっておいでという事です。

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