皆さんが、魂は永遠だとおっしゃるのは、霊は、七五三でも知られますように、神置き紐解きされ、増減がありますが、魂は、霊の入れもののため、変わらないと自覚されておいでだからなのかも知れません。
まるで、プロスポーツのチームの母体は変わらなくても、選手はトレード(人生での霊の増減)され、監督も交替(生まれ変わり)があるようにです。
ところで、魂霊というくくりとは別に、魄令というくくりがある事はご存じでしょうか。
魂魄というまとめた表現もなされますが、この魄こそが難解ではありますが、一点突破全面展開の鍵でもあります。
令は、令和の令でもありますが、要するに、物に属する物部の霊(記憶)が令ですが、その入れものが魄なわけです。
我が家も富士山も太陽も、物部ですから、その器の魄とはいかなるものかという事です。
ところが、魄は、肉体という器に喩えられる事もありますので、ますます理解に苦しみます。
ところで、TVの画面に映る浮世は、月や地球の映像でも、画面の枠には入ります。
その枠(九十木、こと木、寿、言吹き、事祝)こそ、魄の正体です。
ですから、宇宙の果ては魄(枠、沸、湧)という事でもあります。
仏の手の平(私の実在、仏性、神鏡、永遠さえも超える何か)とその柱(枠、魄)を示す西遊記での場面と、エジプトと諏訪大社のお柱の写真は、お借りしています。
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